花魁の歴史

花魁というと映画などの影響もあり江戸の吉原を思われる方が多いかと思いますが、京都の島原では「太夫」とよばれていました。
花魁という呼び名の由来は諸説いろいろとありますが、江戸時代の遊女屋の女郎の中で格が高い女郎のことを、見習いでついていた少女が『「おいらん」ちの姉さん』と呼んだことが次第に「おいらん」となったといわれています。
花魁は多くの遊女の中でわずかな格上の遊女で、美しいだけでなく、芸ごと(舞踏、琴、三味線、お花、お茶、和歌)などを見に付けなければなりません。ですので、少女のころからこの世界に入り15、6歳までにみっちりと教育されたとされています。
江戸時代、花魁などの遊女の遊女屋はひとまとまりでなく、各所に点在していたのですが、江戸幕府は風紀に乱れや治安の悪化を懸念し、現在の人形町あたりに認可をした遊女屋をひとまとめしたのです。
この場所は当時、葦がたくさん生えた『葦屋町』と言われた場所だったのですが、これが吉原の由来になったとされています。

しかし、吉原は明歴の大火でその大部分が焼失し、場所を現在の浅草の方に移したのです。
再建された吉原遊郭は敷地が2万坪、遊女は数千人もいたとされる日本一の花街となりました。
一方、明治に入るとその規模は小さくなり明治32年に売春防止法が施行されたことで、約340年の歴史に幕を下ろしたのです。
最後の花魁道中は1950年に行われたとされています。